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2007/11/30 日記<奥田碩>
奥田碩
奥田 碩(おくだ ひろし、1932年12月29日 - )は、日本の実業家。内閣特別顧問、社団法人日本経済団体連合会名誉会長、元トヨタ自動車社長。1996年藍綬褒章受章。社団法人日本経済団体連合会会長(初代)、社団法人日本経営者団体連盟会長(第9代)、トヨタ自動車株式会社代表取締役社長(第8代)、同社代表取締役会長を歴任。実弟の奥田務は、大丸会長兼CEO、J.フロント リテイリング社長兼CEO。
来歴・人物
社長就任まで
三重県出身。三重県立松阪北高等学校(現・三重県立松阪工業高等学校)を経て、1955年に一橋大学商学部を卒業しトヨタ自動車販売株式会社(現・トヨタ自動車株式会社)入社。大学時代は柔道部に所属し、六段の腕前を誇る。トヨタ自販の経理部時代に上司とぶつかり、1972年秋、マニラに赴任する。ここで奥田は、フィリピンの政商で、現地でトヨタ車の組み立て・販売を独占するデルタ・モーターの社長・リカルド・C・シルベリオからトヨタへの延滞金を取り立てる任務に就く。肩書きは「経理アドバイザー」。これは困難な任務であり、事実上の左遷であったが、奥田は当時のフェルディナンド・マルコス|マルコス大統領らとのコネクションを生かし、未納金の回収に成功した。
当時、マニラには豊田章一郎の娘婿・藤本進が大蔵省の駐在員として出向しており、奥田は章一郎が孫の顔を見に来るたびに同行し、このころから章一郎と奥田の関係が始まった。章一郎は奥田の才能を認め、「マニラでこんなやつがくすぶっているのか。本社の人事は何をしているんだ」とまで言ったという。1979年に豪亜部長に昇格し帰国。1982年に取締役就任。85年にはアメリカ進出のための用地選定を任され、当時会長だった豊田英二から北米事業準備室副室長に指名される。全米からの応募の中から各知事との交渉に当たり、最終的にケンタッキー州工場の誘致に到る。1987年に常務取締役、1988年に専務取締役、1992年に取締役副社長となり、1995年に代表取締役社長に昇格した。
社長時代
社長時代にはそれまでどちらかといえば良い意味で保守的だったトヨタを改革したと言われている。例えば、世界に先駆けてハイブリッド車「トヨタ・プリウス|プリウス」を発売したことや、それまでトヨタが敬遠していたフォーミュラ1|F1への参戦を表明したことなどである。奥田時代、当時国内販売で落ち込んでいたシェアを3年がかりで40%代まで回復させるなど、奥田の時代からトヨタは「攻め」の姿勢に転じて躍進を遂げ、現在の世界第1位の自動車メーカーの座を手にした。このことから、彼の経営手腕は一般的に高く評価されており、ハウツー本が出販されたり他のメーカーの中には彼の改革を手本にする企業まで出てきた。
奥田の諸改革には常に後ろ盾として豊田章一郎の姿があり、奥田も豊田本家の章一郎を求心力として旗印にし、常に豊田家を立てつつ改革を進めた。その一方で、スポーツタイプの車種を全廃した戦略、モータースポーツを広告として捉えるやり方への批判、従業員に過度のサービス残業を強いて労働基準監督署の査察を度々受ける事態を招いたり、業績好調にもかかわらず外国人労働者や非正規雇用の確保で賃金の抑制を行うなど彼の経営姿勢を批判する声があるのも事実である。
財界トップへ
1999年6月、次期社長に副社長だった張富士夫を指名して代表取締役会長就任。2001年株式会社東京証券取引所取締役就任、2002年株式会社UFJホールディングス取締役就任、2005年日本郵政株式会社取締役就任。2006年トヨタ自動車会長及び日本経団連会長退任とともに経営の第一線から退く意向を示すも社内の意向により同社取締役相談役として取締役に留任。株式会社楽天野球団経営諮問委員会委員、KDDI株式会社監査役・取締役、株式会社豊田自動織機監査役、東和不動産株式会社取締役、中京ゴルフ倶楽部株式会社理事、株式会社豊田中央研究所取締役(2006年まで)、株式会社デンソー取締役(2003年まで)、株式会社グレイスヒルズカントリー倶楽部理事等も務める。7年にわたって財界トップの座にあったほか、歴代内閣で経済財政諮問会議や各種審議会、有識者会議の委員を数多く勤め、多数の企業の役員に名を連ねるなど政財界に大きな影響力を誇った。第一線を退いてからも内閣特別顧問に任ぜられており、現在でも財界最大の実力者である。2007年、如水会有志による「石原慎太郎東京都知事、激励と懇親の会」に電報を送った。
経済関係の略歴
1999年より社団法人日本経営者団体連盟会長
2000年より2002年まで社団法人日本自動車工業会会長
2000年より社団法人自動車工業振興会会長
2000年より2004年まで社団法人如水会理事長
2000年よりインターネット文化振興協会理事長
2001年より社団法人デジタルラジオ推進協会会長
2002年に社団法人日本経済団体連合会初代会長に就任し、2004年5月27日総会で再任され2006年5月までその第2期目を務め、その後は同会の名誉会長を務めている。
2001年から2006年まで経済財政諮問会議議員
2001年より社会保障審議会委員
2002年より2006年まで産業構造審議会会長
2003年より交通政策審議会会長
2003年より国土開発幹線自動車道建設会議委員
2004年より財政制度等審議会臨時委員
2004年より日本活性化のための経済連携を推進する国民会議代表世話人
2004年より財団法人日本科学技術連盟第7代会長
2004年より学校法人光産業創成大学院大学理事
2005年より皇室典範に関する有識者会議委員
2006年より2008年まで国立大学法人東京大学経営協議会学外委員
2006年より2008年まで財団法人国際開発高等教育機構会長
2006年より事業創造大学院大学客員教授
2006年より社団法人日本ゴルフツアー機構理事
2007年より国際公共政策研究センター会長
2007年より日本中央競馬会経営委員会初代委員長
2007年より財団法人日中経済協会名誉顧問
2007年10月2日より有限責任中間法人JAバンクアグリ・エコサポート基金会長理事
2007年12月26日より内閣特別顧問
社団法人日本自動車会議所常任理事・顧問
社団法人鉄道貨物協会会長
財団法人トヨタ財団顧問
太平洋経済委員会日本委員会顧問
財団法人海外子女教育振興財団顧問
財団法人長寿科学振興財団会長
特定非営利活動法人日本水フォーラム副会長
財団法人日米地域間交流推進協会副会長
財団法人財務会計基準機構評議員
名古屋大学法学部創立50周年記念事業「アジア法政情報交流センター」創設募金後援会顧問
2007「日中文化・スポーツ交流年」実行委員会最高顧問
財団法人2007年ユニバーサル技能五輪国際大会日本組織委員会名誉会長
美しい森林づくり全国推進会議発起人
奥・井ノ上イラク子ども基金発起人
2011ラグビーワールドカップ日本招致委員会特別顧問
早稲田大学大学院アジア太平洋研究科・アジア太平洋研究センター国際諮問委員会委員
社団法人日本工業倶楽部理事
2005年日・EU市民交流年日本側実行委員会委員長
東京マラソン組織委員会委員
財団法人道路経済研究所名誉会長
財団法人社会教育協会顧問
これからの教育を語る懇談会委員
早稲田大学創立125周年記念募金委員会名誉顧問
財団法人道路新産業開発機構会長
財団法人オイスカ顧問
財団法人日本農林漁業振興会副理事長
国立大学法人一橋大学特別顧問
等も歴任。発言など
*『日経ビジネス』1995年7月17日号に「愛車のアクセル全開で憂さ晴らし」という記事が掲載された。その内容によると、トヨタ・アリスト|アリストに乗る奥田が、先行車との「車間距離をぐっと詰め、パッシングの連続で押しのける」などの行為を常習的に行っていることが語られている。
社長時代に株主総会の席で株主への説明において「例えばクラウンのオーナーなんて大概5年で買い替えるんですよ。ならば5年持てば十分でしょう。過剰品質については徹底的に見直し、コストの適正化に務めます」と発言して過剰なコストダウンで利益を増やして配当についても増額を目指すとしたため批判されている。ちなみに2006年現在、「自家用車5年寿命説」とも言える経営路線のためにリコール (自動車)|リコールが2000年以前のおよそ40倍に増加している[リコール王・トヨタ 欠陥車率3年連続100%超も、回収率さえ非公表(My News Japan、2006年8月9日)]。
皇室典範に関する有識者会議のメンバーを務める。
ミサワホームの経営危機を巡る発言が結果的にミサワホームを産業再生機構入りに追い込んだとして、ミサワホーム創業者(元会長)三澤千代治側が竹中平蔵内閣府|経済財政担当相(当時)、斎藤淳産業再生機構社長と共に公務員職権乱用罪で告発する事態が起こった。
ライブドアの日本経団連入会を認めた際に「企業倫理を学ぶのに役立ててほしい」と堀江貴文を評価していたが、1ヵ月後ライブドアに証券取引法違反が発覚すると「経団連として(ライブドア入会は)ミスだった」と釈明した。。
中華人民共和国|中国訪問の際、同国政府要人との会談で小泉首相の外交姿勢を批判。
2006年3月8日の記者会見では残虐なゲームソフトの影響で一部の若者が社会に適応できなくなりニートと化している可能性を指摘。経団連としてチェック体制を確立すべく検討を開始したと述べた。
業績のいい企業はベースアップでなく、ボーナス増加で対応すべきとし、各企業に徹底を促した。
拝金的な資本主義経済よりも、企業人は「武士道の精神」のような「心の規範」を持つべきと発言した[東北経営者大会での奥田会長基調講演(要旨)−「“こころ豊かな”人・企業・社会をめざして」(日本経団連タイムス No.2779 2005年11月17日)]。
小泉純一郎|小泉内閣総理大臣|首相(当時)の靖国神社参拝に対し、反対の意思を持つ。
橋梁談合事件が起こった際には「談合は慣習、一気になくすのは難しい」「全国津々浦々に行きわたっている慣習のようなもので、地方では仕事を回し合っているワークシェアリング。本当にフェアな戦いをすれば、力の強いところが勝ち、弱いところは沈んでしまう」と発言。
2006年11月19日の国際ロータリー第2760地区(愛知地区)大会の記念講演で「世界の現状と日本の針路」と題した部分の中で「均一性、画一性の社会は、規格品の大量生産には適していたが、今やそれは中国の強み」と指摘し、今後の日本は国民にも地方にも「多様性、独創性」(外国からの移民受け入れ)が必要だと訴えた。さらに、少子化について労働人口の急激な減少を懸念。女性や高齢者の雇用を掲げる厚生労働省の対策に「雇用のミスマッチが起きて対応できない」と批判して「外国人の力を借りるのは不可欠」との見方を示した。大手マスコミの沈黙
これら一連の発言に対してマスメディア|マスコミ各社からの批判・非難が表立って少ないのは、トヨタグループ自体が自由民主党 (日本)|自民党及びマスコミ各社の大口スポンサー・広告出稿者である事が原因である[リコール王・トヨタ “口止め料”日本一の威力(My News Japan、2006年7月26日)]。奥田が2005年8月8日の郵政解散当日に小泉首相と会談し、その後社として自民を全面支援したからである。従来、トヨタ自動車労働組合|トヨタ労組が民主党 (日本 1998-)|民主党に組織内候補を送り込んでいることなどから、トヨタは自民とは一定の距離を置いていた。しかし、奥田は姿勢を転換しグループ企業を含めた役員クラスを自民候補の支援に動員した。日本ガイシや中部電力、東芝など他社もこれに倣った[トヨタが自民支援全開/奥田会長、中部財界に大号令(中日新聞、2005年9月5日)]。経団連会長である奥田が自民全面支援を表明した影響は大きかった。例えばトヨタ本社がある愛知県は長らく「民主王国」とも呼ばれるほど民主党の牙城であったが、奥田が自民支持を表明すると自民が大躍進し民主の絶対優勢は崩れ去った。一方で2007年、日本国内に措ける自動車の販売台数と生産台数が発表されたが、トヨタはマーケットシュア50%超と国内1位は確保したが、前年度に比べて3%弱の低下、販売台数も前年度に比べて10%弱落ち込んでいる。語録
「変わらないことが最も悪い」
「リストラするなら経営者は腹を切れ」
「人間の顔をした市場経済」
「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない」(実際には生活保護が受けられずに餓死する例が多発しているし、ホームレスの凍死は事件にもならない日常茶飯事である)脚註
関連項目
豊田章一郎
豊田達郎
張富士夫
井上準之助
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