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2007/12/10 日記<トヨタ自動車工業サッカー部>
トヨタ自動車工業サッカー部
トヨタ自動車工業サッカー部(とよたじどうしゃこうぎょうさっかーぶ)はトヨタ自動車|トヨタ自動車工業のサッカー部。創部は1939年。呼称はトヨタ。1983年にトヨタ自動車工業がトヨタ自動車販売と合併しトヨタ自動車が誕生した事に伴い、「トヨタ自動車サッカー部」に改称された。1993年からスタートしたJリーグにおいては、名古屋グランパスエイトの前身となったクラブである。
概要
1939年の創部と歴史は古く、1973年から1977年まで日本サッカーリーグ1部に連続で在籍していた時期もあったが、1977年シーズンに81失点の不名誉な記録を作るなど、弱小クラブとしての印象は拭い切れない。地域リーグへの降格は無かったもののJSL2部在籍期間の長いクラブであった。1990年に日本プロサッカーリーグ|Jリーグ参加へのヒアリング調査が行われた際、他の自動車メーカーのクラブ(東洋工業サッカー部|マツダ、三菱重工業サッカー部|三菱自動車、日産自動車サッカー部|日産自動車、ホンダFC|本田技研)と比較しても2部から昇格したばかりの弱小クラブであった事もあり、時期早々として参加を見送る予定であった。そこで東京本社の総務部長で愛知県サッカー協会技術委員長であった西垣成美が奔走し、この決定を覆す事に成功した。これには県サッカー協会による署名活動や地元メディアと連携し運動を盛り上げた事も後押しとなった。またトヨタが掲げた企業メセナ(企業が資金を提供して文化・芸術活動を支援する)の思想もあって、社長の豊田章一郎は、Jリーグの掲げた「設立5年以内を目処にクラブ名から企業名を外す」という考えに賛同。「どうせやるなら、トヨタのトの字も出すな」と英断を下し、これに追随する様に住金、マツダも外す事になった。
そしてトヨタ単独の参加でなく中部圏の有力企業を結集させ名古屋グランパスエイトが誕生した。この勢いもあって1990-1991シーズンの日本リーグではジョルジ・アントニオ・プチナッチ|ジョルジーニョらを擁し5位と健等。翌1991-1992シーズンのコニカカップでは決勝戦に進出、本田技研との日本サッカー史に残る乱戦(6-5)を制し初のビッグタイトルを獲得する等、上昇ムードにあった。なお「豊田」を名乗るチームとして1965年の日本サッカーリーグ創設時に豊田自動織機製作所サッカー部が存在した。トヨタ自動車も豊田自動織機も同じトヨタグループであるが、両者は全く関係のない独立したクラブである。
略歴と主なタイトル
1939年 創部
1943年 戦況の悪化に伴い一時休部
1946年 活動再開
1972年 JSL2部昇格
1973年 JSL1部昇格
1978年 JSL2部降格
1983年 トヨタ自動車サッカー部に改称
1987年 JSL1部昇格
1988年 JSL2部降格
1990年 JSL1部昇格コニカカップ
1991年戦績
歴代監督
大谷恭一 1939-1949
神田新一 1950-1952
稲川達 1953-1956
松本闊 1957-1962
山口日出夫 1963-1964
志治達郎 1965-1974
小沢正弘 1975-1977
曾我見健二 1978-1986、1988
泉政伸 1987トヨタ自動車工業サッカー部に所属した主な選手
佐藤辰男
沢入重雄
ジョルジ・アントニオ・プチナッチ|ジョルジーニョ
浅野哲也
小川誠一
クリシューマ
江川重光
平沢政輝
東泰
行徳浩二
藤川久孝トヨタ自動車工業サッカー部と名古屋グランパスエイトで大きく異なる点
Jリーグに移行する以前は静岡県裾野市の東富士研究所を拠点としていたが、1992年にプロ契約選手はトヨタをメインスポンサーとしたJリーグの名古屋グランパスエイトに、プロ契約をぜずに社業に残る選手については当時のトヨタ自動車東富士FC(東海社会人リーグ所属。1993年にジャパンフットボールリーグ|旧JFL・J2昇格するも会社の方針によって1年で撤退)に振分けられた。創設時のグランパスに所属した選手は前所属チームに「トヨタ」と表記されているため、チーム本体を移管したのではなく所属選手を新チーム名古屋グランパスエイトへ移籍という形式をとったとみられる。また、名古屋グランパスエイトとなって以降、Jリーグオフィシャル書籍|Jリーグオフィシャルの出版物でもトヨタ時代の沿革は記されていないが、天皇杯の出場回数はトヨタ時代からカウントされている。参考文献
『「Jリーグ」のマネジメント』(広瀬一郎、東洋経済新報社 2004年)
『虹を掴む』(川淵三郎、講談社 2006年)
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